ここでいうのは、小中学校や高校に障がいを持った人が出向いて行き、授業をすることとします。
僕は、現場を見たことないですし(学生当時、そんなものなかった)
同行はもちろん、実際にやったこともありません。
ただ昔から、主に新聞記事などから考えていたりはします。
車イス体験とかの授業が流行り出したのって(こういう表現が適切かは微妙)10年くらい前からなんじゃないかなと思います。
障がいを持たれている先輩方のブログを読んでいますと、
たまに学校に行ってきた。というような記述があったりするのですが、
今回は、その中でも興味深いブログ記事があったので紹介します。
どこの学校に行っても必ず訊かれるのですが、「障がいのない私たちをみて、どう思いますか?」と、「もし障がいが治ったら、一番したいことはなんですか?」というような類の問いかけです。福祉実践教室で一番困る質問 - いま、風の中で・・・
僕もこの著者の方の答えがベストだと思うし、まあそう思う。
けど、質疑応答って、回答側として、リアルタイムで即座に答えを導き出すのが難しいんだよね。
やったことないけど、そう思う。
私は、子どもたちに〈他者は自分とは違う存在なんだよ〉〈違っていてもいいんだよ〉〈自分とは違っているけれど、実は同じ人なんだよ〉〈異なる者を排除するのではなく、その存在を認めてあげる〉そこからあらゆる人間関係、例えば友情や恋愛が生まれてくるんだよ...ということを伝えたいのです。福祉教育支援活動をしている私の逡巡 - いま、風の中で・・・
僕は昔から思ってることなんだけど、車イス乗車体験は大して意味のないことだと思っている。
あんなの子ども目線で考えれば、語弊があるかもしれないけど、
楽しいこと、新しい乗り物に乗って何か楽しい。
そんな程度ではないだろうか。ジェットコースターとイコールとまでは言わないが、それに近い感覚だと思う。
もちろん、全員が全員そうではないと思いますが。
僕だったら、たぶん福祉とか直接には関係ない、
夢とか人生とかの話をしたらいいんじゃないだろうか。とふと思った。
年数が経って、そーいやー、昔、車イスのやつがあんなこと言ってたな。と思いだしてもらえたら、
大成功だと思う。
そういう授業だったら、僕はしたい。
コメント
1. ハルキチ 2009年03月02日 17:03
相手が健常者だろうと障害者だろうと相手の立場になって考えるということは難しいことだよね
みんな自分の中で消化してしまうし
たくさん接することで慣れる(この言い回しは語弊があるかもだけど)というのが一番近いかなあと思う
だから障害者学級とか養護学校とかないほうがいいと思う
わけるからおかしくなるんじゃないかな
小学校の性教育みたいな感じ
今はわからないけど私たちの頃は男女別々だったのね
でも別々にやるから妙に性を隠すべきことだと思ったり変に意識したりしてしまうような気がする
男女の性差が当たり前のことであるように
当たり前の隣人だったら特別なことはなくなる気もするなあ・・・
2. はるた 2009年03月09日 17:30
まず始めに、ハルキチさんが真面目なことをおっしゃっているのですごく驚き。(ちゃかしてないです)
「慣れる」ことって、そういうのはあると思います。
昔、誰だったか慣れればいい。というようなことを言っていた記憶があります。
性教育は、女子だけ別室で。というのはありましたね。
あれはどうなんだろう。
男子も聞くべきなんだろうか。
僕も、基本的にハルキチさんおっしゃるように養護学校とか障害児学級とか無い方が良いだろうと思ってるのですが、
最近、じゃあ何であるのだろう。メリットは?と模索しています。